小 説
 芥川賞作家、平野啓一郎が2015年から2016年にかけて発表した連載小説「マチネの終わりに」。40代を迎える男女の、かけがえのない恋愛の行方を、胸に迫る筆致で綴った本作は、多くの読者を魅了した。出会ってから六年のあいだに、わずか三度しか顔をあわせることのなかったふたりの、珠玉の感情のかたち。それは、作者が望んでいたという<「ページをめくる手が止まらない」小説ではなく、「ページをめくりたいけどめくりたくない、ずっとその世界に浸りきっていたい」小説>(「マチネの終わりに」特設サイトより)そのものとして、清らかで奥深い読書体験をもたらした。
 シンプルでありながら、テーマは多層的。世界各地が物語の舞台となるスケールも有している長尺の小説だけに、映画化は困難に思われた。
 大学生のときに執筆した処女長編「日蝕」で<三島由紀夫の再来>とまで絶賛され、1999年当時、最年少だった23歳で芥川賞に輝き、作家としてのキャリアをスタートさせた平野。彼自身は映画化を歓迎している書き手だが、実現には多くの困難が伴い、これまで映画化の企画は実現してこなかった。平野自身、「マチネの終わりに」の映画化オファーがあった際も、半信半疑だったという。
 監督として白羽の矢が立ったのが、西谷弘。『昼顔』では抜き差しならない男女の運命を丹念な人物描写で掘り下げる一方、『アマルフィ 女神の報酬』などで海外ロケ撮影のダイナミズムも熟知している演出家。作品を重ねるごとに、その独自の映像文体を深めている西谷ならば、簡潔さと多様性が融合する、破格の小説世界もリアルに提示できるのではないか。「純文学への挑戦」という初めての試みに緊張しつつも、西谷はあらゆる角度から、妥協を許さぬアプローチを繰り広げていった。
キャスト
 自分の演奏を見失い苦悩するクラシックギタリスト、蒔野聡史が、パリ在住のジャーナリスト、小峰洋子と出逢う。そこから始まる接近と別離、そしてその先を描いた物語。思い通りにならない恋情の揺れ動きが主題でありながら、主人公の男女は理知的で、それゆえに、見つめる私たちは歯がゆくも切なくなる。そして、想えばこそ、お互いの事情も鑑み、情熱と現実の間で揺れ動く大人としてのありように揺さぶられる……。
 そんな男女を具現化するのは、福山雅治と石田ゆり子だった。福山は西谷監督と永らくタッグを組み、「ガリレオ」シリーズなどヒット作に出演する一方、是枝裕和監督作品『そして父になる』『三度目の殺人』など、近年、ますます俳優としての幅を広げている。一方、石田は男女とわず人気を集める等身大の愛らしさで共感度が高い。硬軟いずれのジャンルにも対応、近作『記憶にございません!』では、三谷幸喜監督の下、記憶喪失に陥った総理大臣の妻を実にキュートに演じている。
 同世代でありながら、映像フィクションでの共演は初めてというふたり。だからこそ、それぞれ確固たる存在感を放ちながらも、共にいる時間においては「初々しい」蒔野と洋子が立ち上がる。
 洋子の婚約者リチャード新藤には伊勢谷友介。ビジネスの成功者でありながら、純情な一面も持ち、それゆえに洋子のことで苦悩する男の姿を、ときに颯爽と、ときに刹那的に体現している。また、蒔野のマネージャーで、物語のキーパーソンとなる三谷早苗には、西谷監督とは連続ドラマで顔を合わせている注目株、桜井ユキが抜擢された。蒔野への想いから、ある「間違い」を起こしてしまう、誰にでも起こりうる心情を、説得力豊かに表現している。
 蒔野と洋子の共通の知人であり、ふたりを結びつけるきっかけを作ることになる是永慶子に板谷由夏。プライベートでも石田と仲がいい板谷だからこそ、慶子のキャラクターには何とも言えない優しさが通っている。蒔野のギターの師匠、祖父江誠一に古谷一行。蒔野を、ある意味、親以上の愛で見つめる役柄を、ベテランは茶目っ気もたっぷり含有したダンディズムで演じている。祖父江の娘、中村奏には、幅広い分野で活躍中の木南晴夏。病に倒れた父を思いやる娘心を体現、また、六年にわたる物語の時間の重みも静かに感じさせる存在だ。そして、洋子の母、小峰信子には風吹ジュン。映画監督イェルコ・ソリッチの妻だった信子の、気丈な女らしさを、風吹は精緻にかたちにしている。ヒロイン、洋子の揺らぎの根底にあるものを、信子の存在が豊かに照射している。
音楽
 ダイアローグ、音楽、そして映像。小説「マチネの終わりに」を映画化する上で西谷弘監督は、この3つのファクターを最重要視し、これらが「三位一体」を形成する次元を目ざした。ダイアローグとは会話における言葉のありようである。平野啓一郎ならではの純文学であることに最大限のリスペクトを捧げ、ダイアローグの純度が濁らないように細心の注意を払って、脚本家、井上由美子と共に作品づくりを進めた。
 そして、音楽。クラシックギタリスト、蒔野聡史の物語である本作は、映画においても、全編にクラシックギター音楽が流れていてほしい。西谷には、まずそのような想いがあった。演奏シーンも多く、クライマックスでも演奏自体が非常に重要な役割を果たす。だが、演奏場面だけでなく、ドラマを支える主軸となるサウンドトラックの基本線も、ギター音楽であるべきだと西谷は考えた。そして、そのすべてを蒔野が奏でている……そうなれば、観る者の琴線にふれることが可能になり、文学的なダイアローグと「響きと響き」のハーモニーが生まれる。
 映画には、バルセロナの路上で演奏される民族音楽やニューヨークのジャズ、そして讃美歌なども、「世界には音楽があふれている」というコンセプトの下、流れる。だが、そうした音楽も、中心部にあるギター音楽をより際立たせることになった。
 福山雅治はシンガーソングライターであり、アコースティックギターやエレクトリックギターに慣れ親しんでいるばかりでなく、名手でもある。だが、クラシックギターはまるで別物。奏法も、マナーも、全く違うため、一から学び直す必要があった。そこでギター指導に当たったのが、日本を代表するクラシックギタリストで、原作者、平野とも交流があり、平野が執筆時に大きなインスパイアを受けた福田進一だった。
 クラシックギタリストの本質を深く理解している福田だからこそ、蒔野ならではの奏法を解析し、福山に伝授。福山も、限られた時間の中で驚異的な集中力を発揮、見事クラシックギターでの表現を成功させた。福田は福山の「音楽家としての天性の勘の良さ」を絶賛。かくして、蒔野聡史の「心の音」は、理想的なクオリティで、映画の中に敷きつめられることになった。
フィルム
 西谷監督が「三位一体」の3つめの元素としたのは、映像。深く芳醇なヴィンテージワインを思わせる、大人の恋物語を、銀幕に定着させるためにはどうしたらよいか。監督は、フィルムによる撮影を選択した。
 これは撮影監督、重森豊太郎の発案だった。重森は、豊田利晃監督と『蘇りの血』『モンスターズクラブ』『I’M FLASH!』の3作でタッグを組み、そのディープな映像美が注目を集めたカメラマン。芥川賞作家、本谷有希子原作による近作『生きてるだけで、愛。』では、16ミリフィルムでの撮影を敢行、とりわけ夜間シーンのダイナミズムで脚光を浴びたのは記憶に新しい。
 だが、長編映画で35ミリフィルムでの撮影は、もはやほとんど行なわれない。デジタルカメラの進化はめざましく、映像深度はフィルムと遜色なくなりつつあるからだ。現場での機動力、編集作業における合理性、そして予算の面から考えても、フィルムよりデジタルが選ばれる傾向にある。しかし、西谷と重森は、35ミリフィルムでの撮影にこだわり、実現させた。
 デジタルならカメラはいくらでも回し放題。だが、フィルムはロールを交換する「ロールチェンジ」の時間的ロスも生まれる。デジタルが主流となったいま、「ロールチェンジ」の空白タイムは初体験だという若いスタッフ・キャストも少なくなかった。だが、むしろ、このじっくり腰を据えて回していく撮影方法は、時間と場所との「距離」の物語でもある本作のムードと相性が良く、濃密な作品づくりを生んだ。
 そして、もちろんフィルムだけが持つ奥行き、立体感は、映画版『マチネの終わりに』の世界観を大きく羽ばたかせた。
 西谷はフィルムを選択した根源的な理由を、クラシックギターとフィルムに通底する「古典性」に見出したという。
 デジタルではなくアナログ。その場ですぐ確認できるわけではなく、現像することで初めて全貌を明らかにするフィルムでの撮影は、観る者の想像力を愛撫し、蒔野聡史、小峰洋子、それぞれの心象に語りかけるインスピレーションを授ける。だからこそ、これはとても贅沢なラブストーリーたり得ているのだ。
クランクイン
 2018年9月22日。都内某所で、映画『マチネの終わりに』はクランクインした。とある建物をお借りし、美術・装飾を施し、蒔野聡史の部屋として設定。蒔野ひとりのシーンを中心に撮影した。クラシックギターはもちろん、アナログレコードのコレクション、家具、キッチンの趣味などから、主人公のパーソナルな像が浮かび上がる。価値観、ライフスタイル、そして天才ゆえの孤独も、福山雅治という俳優がこの場所に立つことで、血肉化する。短髪の福山には、どこか少年のまま年齢を重ねたようなニュアンスがあり、そのどこかちぐはぐな陰影も、蒔野の密やかな特異性をじんわり感じさせる。料理をしたり、掃除機をかけたり。しばらくは無言のシーンが続いたが、福山はまなざしひとつ、所作ひとつにも、このクラシックギタリストの個性を宿らせていて、目が離せない。映画を観る者の視線を静かに吸引する「何か」が蒔野にはある。そのことが実感できた。
 後半では、小峰洋子とSkypeで対話するシーンを撮影。この日はカメラに映らない石田ゆり子も現場に加わり、実際に少し離れたところから、蒔野と洋子のチャットが繰り広げられた。まず、洋子から連絡が来たときの蒔野の表現が素敵だ。パソコンの前で姿勢を正し、さり気なく「心が正座していく」までを福山はスムーズな動きの中で見せていく。そして、いざ会話が始まると、堰を切ったように言葉が弾む。心が折れそうになっている洋子を励ますべく、笑い話をする蒔野を、福山はカジュアルさでコーティングしていながら、一途な佇まいで恋する男の実像を端的に伝える。
 旧知の仲ながら、西谷監督とのパートナーシップは慎重そのもの。「丁寧にいきましょう」と福山に語りかける監督の言葉に、この映画が大切に紡がれていくことを痛感する初日となった。
パリ
 映画『マチネの終わりに』最大のトピックは、10月下旬から11月中旬にかけてパリを中心に大規模な海外ロケが行われたことである。準備も入れるとほぼ1ヶ月、スタッフ・キャストは日本から離れた。
 もちろん原作で海外が大きな舞台となっているからだ。実際に現地に赴き撮影しているが、いわゆる観光映画的な場面は、ほぼない。ヒロインの洋子にとってパリはジャーナリストとして生きる場であり、もっと言ってしまえば、闘いの空間でもある。ムーディな風景描写は皆無と言っていい。一方、欧米公演のある蒔野にとってステージは、当然のようにホールの内部にある。つまり、この物語は、「海外ロケ」という言葉から想像される派手さとは無縁であり、必要とされていたのは、圧倒的なリアリティ、あるいは風土からもたらされる実感そのものだった。
 長期ロケによって、石田ゆり子は洋子の日常を痛感し、人物への理解がより深まったと語る。パリ在住のジャーナリスト、洋子にとっての「この街」を体感することが、演じる上で必須だったのかもしれない。その意味では実に贅沢な「役づくり」であった。たとえば、セーヌ川のほとりで、殺到する多数のフランス人ジャーナリストに囲まれながら、フランス語で警察に取材をする洋子の場面は、パリでしか生まれ得ぬ迫真に満ちていた。西谷監督は「自分が知っている役者の中でも集中力はトップ」と石田を讃える。このシーンには、まだ火災に遭う前のノートルダム寺院が記録されており、その意味でも貴重。
 一方、クラシックギタリストの主戦場はステージだ。聴衆の前での生演奏は、奏者にとって生命を燃やす表現=時間に他ならない。欧米の厚みを感じさせる歴史的ホールに、満杯の欧米人のエキストラを据え、演奏シーンを撮影する。西谷監督の「音楽」を映画の主要元素にしたいという願いの最上の実現のひとつでもある。
 現地で驚いたのは、エキストラの質の高さだ。ひとりひとりが、まるで俳優のような風格を持ち、真剣かつ柔軟なリアクションで、シーンに有機的な躍動をもたらす。とりわけ感動的だったのは、演奏を中断した蒔野に対するブーイングのありよう。一斉に同じ反応をするのではなく、それぞれが、それぞれの意志で、それぞれのリズムで、それぞれのタイミングで、思い思いの「ダメ出し」をする。否定にも多様性があるのだ。そこからは欧米における芸術と観客との、決して馴れ合いではない関係性を肌で感じた。オーディエンスには確たる誇りと、批評への責任がある。欧米文化の真髄を目の当たりにしたと言っても良い。これは日本では絶対に撮れない真実だった。
 パリは恋の都であり、映画の都でもある。その街並みには、経年を重ねてなお最前線の美しさを獲得していく、比類なきみずみずしさが宿っている。パリは、映像にこだわりフィルムを選択した監督の直感にフィットする、まさに理想的な環境だったと言えるだろう。 
福山雅治
 シンガーソングライターとして確固たるキャリアを築きながら、俳優としての新境地に果敢なトライを続ける福山雅治。映画『マチネの終わりに』には、見たことのない彼が映っている。スランプに直面し、その只中で出逢った女性と心を通わせていくクラシックギタリスト。これほどまでに脆く壊れやすい福山を、私たちは想像したことがなかったのではないか。天才ゆえの孤独、才能ゆえの苦悩。どこか綱渡りだとさえ感じさせるナイーヴな魂を、福山は蒔野聡史の端正な佇まいの中に息づかせ、決して大げさではない表現で感じさせてくれる。だからこそ、小峰洋子と共に過ごすことのできた、決して長くはない時間のかけがえのなさが際立つのだ。
 たとえば序盤のスパニッシュレストラン。公演の打ち上げに招いた洋子のことを横目で気にしながら、みんなの前で馬鹿話をするときの蒔野。さっき出逢ったばかりの女性に、惹かれている自分に戸惑いつつ、彼女の反応を心待ちにしている様を、軽妙なトークのはざまに織り込んでいる。
 そんな蒔野だからこそ、パリの橋のたもとにあるレストランで昼食をとりながらの、洋子への想いをかたちにした言葉が際立つ。男が意を決して告白するときの、あたかも身投げするような勇ましさと心もとなさ。それらを同時に存在させる福山は、「伝えてしまったこと」の後悔や反省にリアルな情感をまぶし、ただのロマンティックなシーンには終わらせない。
 本作には、蒔野に自信を喪失させる存在として、クラシックギター界の新星、ティボー・ガルシアが実名で出演している。彼との共演シーンのオフタイムでは、ギターを媒介に、自然にコミュニケーションをとり、役者としては不慣れなティボーを安堵させる福山の姿があった。大らかで、スマートで、フレンドリーな素顔の福山は、やはり蒔野とは別人格。あらためて、俳優・福山雅治、最新の創造物が蒔野聡史であることが実感できた瞬間だった。
石田ゆり子
 ヒロイン、小峰洋子は、フランス語、英語を駆使する役どころであることに加え、海外在住のリアリティを感じさせる説得力が必要。さらには複雑な家庭環境もある。それだけに、演じる石田ゆり子にとってはかなりハードルの高い存在だったに違いない。
 第一線のジャーナリストとしての「現場」を体感させる。言ってみれば「情報量」の多いヒロインであり、それら「データ」をなぞっていくだけでは、おそらくキャラクター性はやせ細っていったであろう。
 石田のアプローチは、抑制の中から静かにこぼれ落ちるヒューマニティをつぶさに掬いとるもので、それは福山が蒔野のメンタリティを沈黙と饒舌を合わせ鏡にした上で反射させている様に呼応していることもあり、ひたひたと胸に迫る。
 たとえば、宴の後、蒔野が洋子をタクシーに乗せるシーン。打ち上げの席で蒔野が披露した小話の嘘を見抜いていることを伝える際の、的確さと優しさの入り混じった発声は、決して両者が接近しているわけではないのに、関係性の上での親密さを醸し出す。
 あるいは、洋子と蒔野のキスの後、優しく柔らかな雰囲気の中に、どこか澄み切った印象の芝居を、石田は鮮やかに見せた。恋というものの、儚さとかけがえのなさが束の間交錯する情景がそこにはある。
 あるシーンで西谷監督は石田にこう伝えた。「この映画は、すべてが見せどころだから」と。どんなシーンも手を抜かず、徹底して構築していく監督らしい発言だが、石田は見事、その要求に応えた。
クランクアップ
 ニューヨーク、セントラルパーク。西谷監督は、大きな円形の噴水を「地球」に見立て、この星の表側と裏側で、交錯する男女の姿を描く。クランクインしてから8週間あまり。世界中の人々が憧れる摩天楼の街で、クライマックスを迎える蒔野と洋子の物語。彼と彼女の表情は年月を重ねてきたからこその趣があり、人の世は思い通りにいかないからこそ尊いのだとも思わせられる瞬間。言葉のない一瞬に心が通いあう情景を、福山雅治と石田ゆり子は、共に旅を続けてきた者同士だからこそ切なさと歓びの狭間のグラデーションとして体現していた。この日、クランクアップとなった福山は「一緒にいられる時間が短かった……」と何とも名残惜しそうに語り、まさに蒔野そのものの心情で撮影を終えた。ニューヨークは初雪にして大雪という劇的な天候となったが、スタッフ・キャスト全員にとって永遠に記憶に残る撮影であった。
 それから約2週間後の12月1日早朝。都内某所のバスターミナルで、雨降らしの大規模な撮影が行われた。東京で蒔野と再会するはずだった洋子が来日直後、彼と連絡がとれなくなる物語の転換点となる場面。雪から雨へ。海を隔てて、極寒のフィナーレを迎えた石田は「望んでもできない体験」と女優冥利に尽きる表情を浮かべ、クランクアップ。晩夏から初冬へまたがることになった一編の映画は、軌跡を描きながら、恋愛の奇跡へとたどり着いた。
top
©2019 フジテレビジョン アミューズ 東宝 コルク